あどはどっ~徒然なるADHD日記~

ADHDの人向けの知恵や日記、徒然なるままにつづっています。

親の愛が発達障碍者に健常者にも将来及ぼすもの

こんにちは。いさなです。

 

街中で親とあったのでおごってもらってきました。

 

久しぶりにいいもん食ったぜ…(ザ・休職中の貧困層

 

さて、今日は親のお話。

 

 

 

私たちは生まれた時から競い合う存在

 

さて、以前話した「まともに育てることに必死だった」いさなの親ですが、全くそこに愛がなかったわけじゃありません。

 

我々子どもたちは生まれた時から「競い合い」ます。

子どもというのはある意味母親のステータスだからです。

 

のほほーんとしたお母さんならともかく、

 

もし私が母親だったら…

 

ママ友A「うちの子この間『ママ』っていったの!」

ママ友B「たっちしたわ」

ママ友C「数字を理解し始めて…」

姑「いさなさん、ちょっとこの子発育遅いんじゃないかね」

いさな「…(私の教育が悪いのか?私がちゃんと生んでやれなかったのか?)」

 

やべえ、この会話怖え。

ママ友と姑の板挟みとか。

 

ただでさえ発達障害の子は発達具合が偏ったりします。

 

そりゃ子供のためにもまともに育てるほうに必死になるよね!!!

 

とふと思いました。

 

ちなみにもし私が私の母親だったら(ややこしい)

 

「もうどうしていいかわからんわ…」(養子行)

 

だったかもしれません。

 

しかもその発達の偏り、遅れは成長とともにずっと続くのです。

親も必死になるし疲れることでしょう。

 

例えば小学生になれば先生の家庭訪問。いろいろ指摘されます。

ちなみに私は引き出しの整理整頓ができなさ過ぎて母親が出撃するレベルでした。

 

ちなみに私の父・母は特殊な育ちで、子供のころから「背伸びせざるをえない」アダルトチルドレンだったので、なおさらだったのかもしれません。

 

私はただ「好きだ」「愛している」といってほしかった

 

私は以前話した通り、とにかく「まともになる」「普通になる」ことを目指して育てられました。

 

私は4歳くらいの頃、命を懸けて特攻しました。

 

いさな「私を殺してくれ」

 

昔はなんでそんなことをしたのかわかりませんが、今ならわかります。

 

私はただ、命を懸ければ「愛してる」「好きだ」といって止めてくれるのではないかと期待したのです。

 

その期待は残念な結果に終わりましたが…

 

ただ言葉足らずなだけ、でもその言葉足らずが悲劇を起こす

 

そうして私は親の顔色を窺って、親に「自分に全く非がない」(いじめとか)こと以外相談できない人間に育ちました。

 

でも今ならわかります。

 

言葉がなかっただけで、親は私を愛していたからこそ必死に手をかけてくれたと。

でも、その言葉があったら、もっと違っていたと。

 

例え発達障害がわからなくても、何をするにも人から遅れていても、無条件で「愛している」とさえ言ってくれさえすれば、私は親を信用できたのです。

 

親は私が窮地の窮地に立ったいることを知ったとき、泣いて言いました。

 

親「どうして早くいってくれなかったんだ」

 

むしろ泣いている親にびびりました。え、そんなに私のこと好きだったの?

でも言えなかったんだよ。それだけの信頼関係がないと思ってたんだよ。

 

だから、ご両親は私みたいな存在を作らないために伝えてください。

 

「好き」でも「愛してる」でもいいです。

とにかく、言葉で、記憶に残る形で何度でもいってください。

 

それだけで、発達障害を持っていようといなかろうと子供たちはは報われます。

将来が変わります。

 

どうしよう子供もうでかいよという人へ。

 

愛しているなら生きているうちに伝えてください。

何かが変わるかもしれません。

それが今すぐでなくても、子供の数年後、数十年後にでも。

 

親から逃げてきた人へ。

 

私たちは親から愛された記憶を持てなくても、自分で自分を愛することができます。

 

私もまだ私を愛しきれていません。

メンタル〇リーズブートキャンプは繰り返していますが、本当にまだまだ。

 

自己愛の礎となるのが普通は親の愛ですが、その基礎は、自分でも作ることができます。

 

「愛してほしかった」と親を呪っても、あなたが殴りつけて、爪を立てているのはあなた自身です。

 

殴るくらいなら、爪を立てるくらいなら、その手で自分を抱きしめてください。

親がいなくても、あなたはあなたを愛せます。

 

自己愛というのは発達障害も健常者にも必須なものです。

自己愛がなければ私たちはそれを求め、尽くし、頑張りすぎて燃え尽きます。

 

特に発達障碍者が、障害者雇用であるにも関わらず無理をして「グレさん」になる理由がそれです。

 

愛は馬鹿にならない

 

「愛なんてきれいごと…」なんて言いそうですが、愛って実際あるとないとすごい現実違いますからね。

 

子どももいないギリ20代、生きるのもやっとな半人前のアラサーが偉そうに語るな!!引きずるな女々しい!と言いたい人は大勢いらっしゃるでしょうが、子供視点で語るとやっぱり言ってほしいのです。

 

例え30年近く生きたとしても。

 

というお話でした。

 

でもね、「好き」という言葉は欲されるだけ強い力になります。

決して子供への呪いとして用いないでください。